[ S P E C I A L C O N T E N T S ]
Report 1 美容界史を辿る現代カットスタイルの変遷
歴史を知ることは、未来を予測すること。
コバルトシザーズは半世紀近くも、プロの道具として世界中のトップスタイリストに使われ続けてきた。
だからこそ、今後半世紀続く新たな道具造りには100年分の歴史と予測が集約されていなければならない。
考え過ぎかもしれないが、それがキクシザーズ研究なのである。
新しいものを作るだけならば、研究はいらない。
今年出して来年にはない、そういった毎年入れ替わるように発売される商品とは、全く別次元の話なのである。
サロン軒数6万8649軒、美容師数12万1887人
(1961年調べ)
1960年 日本ヘアデザイン協会が初の欧米美容業界視察団派遣
1961年 薬事法施行細則公布
コールドウェーブ液が医薬部外品に指定
1963年 ヴィダルサスーン氏(英)がジオメトリックカットを発表
1966年 ビートルズ来日でマッシュルームカット流行
日本コールドウェーブ液工業組合認可
1967年 モデルのツイッギー来日
ミニスカート・ショートカットブームが起こる
1969年 全国美容師総数が20万人突破
全国理容美容学校連盟設立
「3人集えば研究会」と言われた程に全国各地で精力的に行われた。戦後10年を迎えたこの年代は、国内のみならず海外からのファッション情報が流入し、美容とファッションの融合により様々なヘアスタイルが誕生していった。ヴィダルサスーンが発表したジオメトリックカットとは、特定のヘアスタイル/デザインの呼称ではなく、この年代に発表した様々な作品群の総称として用いられる。女性の積極的な社会進出を契機に、手軽で再現性のあるヘアが求められていた。このカット理論は現在もなおヘアカットの基礎として学ばれる。
サロン軒数11万6021軒、美容師数21万6906人
(1970年調べ)
1970年 ヴィダルサスーン氏来日
CIC/OAI第3回世界理容美容選手権大会に日本人初出場
1972年 ストレートヘアー流行
カット研究会が次々と誕生
1974年 カット&ブロー、メッシュ流行
理美容間でコールドパーマ論争
1977年 国際美容教会が8月3日を「ハサミ供養の日」に設定
1978年 ICD世界大会が日本初開催
理容店男子パーマを理美容が合意書調印
ヴィダルサスーンの来日からもわかるように、この集団はより一層大きな組織へと成長し、グループ内の若者を中心に数々の才能あふれる作品を発表していった。カーラーを必死に巻いていた日本人美容師は、骨格形成に基づくミリ単位の精巧なカット技法をもつジオメトリックカットを目の当たりにし、研究会はさらに数を増していった。サスーン氏は各地講習会を精力的に行い、その都度「このカットには、このハサミを」と繰り返し強調した。それが現在でもなお根強く支持される4.5インチのメガネタイプである。手の中に握り込めるこのサイズは、指先のように自由にそして正確に取回せるメリットがある。二度ものオイルショックを乗り越えた美容業界は「不況に強い」と誰もが認める業界となった。一方で慢性的な人手不足は、80年代へも尾を引く。
サロン軒数15万6635軒、美容師数25万8124
(1980年調べ)
1981年 ホームパーマ問題発生
聖子ちゃんカット大流行
1983年 日本コールドウェーブ液工業組合
「縮毛矯正剤の要望書」を厚生省に提出
1986年 外資系サロンが日本に続々展開
経済バブルにとどまらず美容業界においても様々な話題で盛り上がりをみせ、聖子ちゃんカット、ワンレン、ソバージュ、ストレートパーマ等が次々と誕生した。一方ではホームパーマが浸透する事への危惧、外資系サロンによる圧迫、人材不足などの不安材料も増した。明るい話題と深刻な問題が混沌と拡がり、美容企業は経営体制の変革を迫られた。ヴィダルサスーンのカット理論は安定した定着をみせ、新たな風としてTONY&GUYが登場した。イタリア系イギリス人の4人兄弟で、長男トニー、二男ガイ、三男ブルーノそして四男アンソニーである。特筆すべきはアンソニーの才能であり、ヴィダルサスーンの繊細ミリ単位のカットに対し、一味違った作品を次々と世に知らしめた。
サロン軒数18万6506軒、美容師数31万64068124
(1990年調べ)
1990年 (財)理容師・美容師試験センター設立
理容師美容師学科試験を委ねられる
1992年 「ヘアワールド‘92東京」開催では日本チーム初優勝
1996年 日本ヘアカラー協会設立
世界理容美容技術選手権大会が米・ワシントンDC開催され日本3連覇
1999年 カリスマ美容師ブーム
バブル崩壊により「失われた10年」と称された時代。オウム事件や阪神淡路大震災といった出来事が人々の価値観を大きく変えた時代に暗い影を落としていった。しかしながら、バブル様相を呈した美容業界。若者はヘアカラーブームに沸き、90年代半ばからサロンカラーも定着してきた。原宿を中心にヘアデザイナー達がマスコミの注目を集めカリスマ美容師ブームが到来。
戦後美容界の歴史はヴィダルサスーンにより形成されたといってよい。ヘアスタイルとファッションには相互作用があり、この美容界は日本の戦後史でも最も大きな成長を遂げた分野であることは疑いない。特筆すべきは、女性の社会進出にある。ツィッギーがミニスカートをはきショートカットで来日したことは特に印象的であった。ミニスカートは女性が力強く社会を闊歩し軽快なフットワークで動けることを象徴し、ショートカットはそれまでロングを結わなければならなかった出勤前のヘアスタイルセットの時間と手間を大きく短縮させ、時間に厳しいビジネス社会でも通用することを象徴してみせた。また、ショートカットは動いても崩れにくく、崩れても首を振るだけでサッと元に戻ることで社会進出する女性には大変便利であった。まさにこのようなヘアスタイルを生み出したのはヴィダルサスーンであり、彼はその精巧且つ再現性高いカット技術を普及させるため、各地の講習会では「このカットにはこのハサミを」と繰り返した。それは手に握り込んだときにすっかり収まり、それゆえまるで指先のように使えるサイズの4.5インチメガネであった。日本のみならず世界中の技術者にとっても最も大事な道具であるハサミは、ほとんど例外なくこの4.5インチメガネに起源を持ち、現在なお技術者を支えている。
KIKU SCISSORS COLLECTIONがヴィダルサスーンの目指したカットを研究し踏襲した唯一の「正統」であり続ける起源は、ここにある。
奇抜・斬新、そういった第三者に与えられた偽りのオンリーワンとは無縁の哲学と言えよう。